川瀬巴水(かわせ はすい)は日本画の世界に入ったのが20台後半と遅咲きでした。しかし数多くの有名作品を残し、現在でも知名度の高い画家です。
ここでは川瀬巴水の経歴や人気作品をご紹介します。
川瀬巴水の経歴
川瀬巴水(本名:川瀬文治郎)は、1883年に組紐職人の長男として誕生。10代の頃から絵画に興味を持ち、14歳の時には川端玉章門下の青柳墨川に日本画を学びます。
19歳の時、より腕を磨くため荒木寛友の元へ行こうとしますが、両親が反発。その後2年ほどで画家の道を諦めざるを得なくなったのでした。
その後家業を継ぐものの、画家の夢を諦めきれず、1908年に日本画家・鏑木清方の元へ。しかしこの時既に20半ばを過ぎていたため、日本画家ではなく、洋画家の道を勧められるのでした。
一旦は洋画家の道へ進むものの、どうしても日本画への夢が捨てられず、再び鏑木清方へ弟子入りを懇願します。熱意が通じ、入門を許された川瀬巴水は、2年の修業期間を得て、「巴水」の画号を与えられ、日本画家としての人生をスタート。
1912年に初めて「うぐいすきく二娘」を出品。その後も烏合会や郷土会の展覧会などに出品を行い、次々と賞を受賞。知名度がアップします。
1930年代にはアメリカに進出。トレド美術館主催の現代日本版画展に出品し、注目の的に。1939年には北朝鮮へ旅行し、「朝鮮八景」や「続朝鮮八景」を発表します。その他高い功績が認められ、1952年には文部省文化財保護委員会無形文化課において伝統的木版技術記録を作成し、永久保存されることが決まりました。
1957年に東京都の自宅(現・大田区上池台)で胃癌のため死去。没後、絶筆となった「平泉金色堂」が完成し、友人や知人に配られました。
川瀬巴水の代表作品

引用:SMPO美術館
川瀬巴水は当時衰退気味だった日本の浮世絵版画を復興すべく、吉田博らと共に新しい技法「新版画」を確立したことでも有名です。
特に日本各地を旅行した際に写生した絵を原画とした版画作品を数多く発表。日本的な情緒あふれる風景を豊かに表現しています。
有名なものに「秋の越路(1920年)/木版画」や「金沢下本多町(1921年)/木版画」、「五月雨ふる山王(1919年)/木版画」などがあります。いずれも何気ない日本の風景を切り取ったものながら、そこに住む人々の生活を見ることができるでしょう。
また絵画だけでなく、雑誌の表紙や挿絵・口絵なども多く手掛け、雑誌『写真通信』の昭和1926年12月号にも登場。鉄道省国際観光局日本観光宣伝用ポスターにも採用され、一万枚が出版されました。
関東大震災では作品の大半が焼失し、一時は失意の底に沈んだ時期もありましたが、関西地方へ写生旅行に出かけたのを機に復活。1929年には「旅みやげ第三集」を完成させ、新たな巴水様式を確立しました。
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