江戸時代中期に活躍された文人画家、書家の池大雅の経歴や代表作品をご紹介していきます。
池大雅の経歴
池大雅は江戸時代中期に活躍した文人画家、書家です。
亨保8年、1723年5月4日に京都銀座役人の下役の家に生誕しました。幼少期に父が亡くなり、経済的に困窮する逆境のなかでも6歳から素読、7歳から唐様の書を学びはじめ、子どもながらにして頭角を表しました。萬福寺で書を披露した際には、あまりのできの良さから「神童」と呼ばれるほどだったそうです。
文人画や中国絵画を見様見真似で絵を学んできましたが、後に文人画家である柳里恭をはじめ、数多くの朱子学者や僧侶の支援を受けて、さらに才覚を発揮しました。天才肌ではありましたが、それにあぐらをかくことなく、20代のころには手指で絵を描く指頭画など、常に新しいチャレンジに取り組みました。
旅行、とりわけ山歩きを好んだ大雅は富士山や白山、立山など日本各地に出かけ、実際の風景を描写した真景図を描きました。
情弱や濃淡がはっきりした描写と、全体的に広さが感じられる作風。中国絵画に独自のアレンジを加え、これまでの日本における人文画に新しい風を吹き込みました。
また、書家としても活躍をし、松阪市の桜井七郎右衛門「黒丸子」の看板などが残っています。ちなみに、この看板のエピソードとして、薄汚い格好をした男が突然桜井の家に訪れ、小僧が静止を振り切って看板を書き出て行ってしまったそうです。
報告を受けた桜井も腹を立てましたが、それがたいそう立派なもので、後に薄汚い格好をした男が池大雅であったというエピソードがあるそうです。
プライベートでは同じく文人画家の妻と仲睦まじく暮らす一方で、多くの文化人と交友があり、金に糸目をつけずに豪遊したという逸話も残っています。
安永5年、1776年4月13日、53歳でこの世を去りました。
池大雅の代表作品
中国の人文や絵画に強い憧れを抱いていた大雅。実際に中国へ旅することは叶いませんでしたが、中国絵画を模写して独自の作風を創り上げていったのは前述のとおり。
東京国立博物館に収められている岳陽楼を描いた「楼閣山水図屏風」は、清時代の邵振先が描いた「張環翁祝寿画冊」を模写したものと言われています。
旅や登山が好きだった大雅。富士山を描いた「富士山図」や松島を描いた「陸奥奇勝図」など、自身の目で見た風景を独自の画風で表現した作品が数多く残されています。
一方、書画についても高い評価を得ていて、「一行書」「霞樵」といった作品が高値で取り引きされています。
日本画買取、掛軸の買取なら買取専門店の散歩道へ
池大雅の日本画がございましたら、買取専門店である散歩道で査定してみてはいかがでしょうか?宅配買取、出張買取も無料で実施しています。
買取専門店だから、日本画に精通した鑑定士が一点一点丁寧に価値を見極め、ご納得いただける買取価格をご提示します。
まずは写真をLINEで送るだけで鑑定士が買取価格を査定する、「LINE査定」を利用してみてください。
掛軸買取り、日本画の買取なら、散歩道にお気軽にご相談ください。