田中一村(たなか いっそん)は没後脚光を浴びた日本画家です。奄美大島の雄大な自然を描き続けた彼の版画やリトグラフは今でも大人気。
ここでは田中一村の経歴や人気作品について解説します。
田中一村の経歴

引用:鹿児島県奄美パーク
田中一村は1908年、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として誕生。父親は彫刻家の田中彌吉で、幼いころから芸術に親しみながら成長しました。
若くして水墨画の才能を発揮した田中一村は「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞するなど才能を発揮。父から「米邨」の号を与えられるほどでした。
1920年には米邨の落款で描いた「枝垂れ桜に四十雀」が、イタリア人飛行士に贈られた書画集に掲載され、知名度がアップ。
1926年に中学校を卒業し、 東京美術学校(現・東京芸術大学)へ入学すると、同期である東山魁夷や加藤栄三、橋本明治、山田申吾らと共に絵画の腕を磨きます。しかし学校の方針への不満や父の病気が原因で中退。主に篆刻家の趙之謙や呉昌碩風の南画を描き、生計を立てるのでした。
今までは田中米邨(たなかべいそん)名義で活動していましたが、1947年の第19回青龍社展入選をきっかけに「一村」と名乗るように。
その後は日展に出品するも、第9回・第10回と立て続けに落選。九州を中心にスケッチの旅をし、院展出品を目指します。1958年に第43回院展に『岩戸村』『竹』を出品しますが落選。絶望感を募らせながらも、染物工場で働きながら絵を描き続けます。
その際に働きながら個展の費用を捻出しようとするものの、結局実現はされず、1977年心不全で倒れ逝去しました。
田中一村の代表作品

引用:千葉市美術館
田中一村は50代で奄美大島に移住。亜熱帯の花鳥や風土を題材にした独特の日本画を多く描くも、生前作品をアピールする機会に恵まれませんでした。
そのため生前はほぼ無名であり、ようやく脚光を浴びたのは、NHKが1984年に放送した『日曜美術館』や『南日本新聞』に連載された「アダンの画帖~田中一村伝」です。
独特な作風によって、「日本のゴーギャン」と呼ばれた田中一村は全国巡礼が行われるなど、ようやく知名度が高まります。特に有名な作品が「アダンの木(1969年)/リトグラフ」です。
メインで描かれている「アダン」はパイナップルに似た果実を付ける南国の木です。奄美大島の自然を描いた田中一村の代表作であり、アダンはもちろん背景に見える海や砂浜もまるで写真と間違えるようなリアルさ。
他にも「不喰芋と蘇鐵(1973年以前)/版画」や「奄美の海に蘇鐵とアダン(1973年以前)/版画」など田中一村の作品は、100点以上が千葉市美術館などに収蔵されています。
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