田中恭吉(たなか きょうきち)は「死」を意識した版画を多く残した画家です。彼が生前に生み出した作品は、死を連想させながらも、生への強い思いが込められていました。
ここでは田中恭吉の経歴や代表作について見ていきましょう。
田中恭吉の経歴
田中恭吉は1892年、和歌山県で生まれました。1910年に地元の中学を卒業後上京し、約1年間、白馬会原町洋画研究所に通います。
その際に版画家・写真家の恩地孝四郎と知り合います。翌年には東京の美術学校に入学し、多くの画家と知り合う中で自身の道を模索。
1913年には自身初の木版画作品を完成させたとされています。その後は仲間たちと同人誌を作ったり、雑誌にペン画を投稿し、徐々に芸術の才能を発揮していきました。
そして版画家の藤森静雄を巻き込み1914年には私輯「月映」を刊行。順調かと思いきや、1913年に結核を発病。志半ばで仲間に惜しまれつつ無念の中、生まれ故郷の和歌山県に戻ることに。
この際の無念さを田中恭吉は「焦心」という作品で表現しています。この作品はエドヴァルド・ムンクの影響か、病んだ心理状態のせいか、非常に暗い雰囲気を醸し出しています。
闘病中は体力の必要な版画ではなく、詩歌を中心とした活動を開始後、公刊『月映』が刊行。しかし復帰の道は遠く、1915年に23歳の若さでこの世を去りました。
田中恭吉の代表作品

引用:和歌山県立近代美術館
田中恭吉は若くして亡くなったため、版画作品は少なめです。しかし1917年には萩原朔太郎の詩集「月に吠える」で恭吉の作品が取り上げられたり、作品の多くは和歌山県立近代美術館に貯蔵されているなど、死してなお、知名度の高さは変わりません。
病魔に侵されてからは「生」をテーマにした版画作品も多く生み出しており、自身の死に対する不安を表現しているようです。
「失題(1914年)/木版画」は得体のしれない恐ろしいものに絡みつかれ、身動きが取れなくなった少女の姿を白黒で表現。よく見ると少女に絡みつくものは、薄ら笑いを浮かべ、彼女の自由を奪うかのようです。
同じ年に生み出された「ひそめるもの(1914年)/版画」にも、田中恭吉が感じていた死を連想させるモチーフや、押さえつけるような圧力を感じます。
様々な経験を積み、「これから」という時にただ運命を受け入れ、死を待つことしかできなかった田中恭吉の無念さを感じずにはいられません。
田中恭吉の版画買取や木版画の買取なら買取専門店の散歩道へ
田中恭吉の版画は、多くが和歌山県立近代美術館に貯蔵されているため、一般に出回ることは少なめです。
ですが、もしご自宅に眠っている田中恭吉の版画(木版画)がありましたら、散歩道へご相談ください。一点からでも丁寧に買い取りさせて頂きます。
当店では無料でLINEや電話・メールにて相談を受付中!特にLINE査定は画像をプロの鑑定士が直接確認するので、いくらで売れるのかがすぐにご確認頂けます。
もちろん売却頂く際には出張買取、もしくは宅配買取よりお選び頂けます。難しそうな絵画の梱包方法も丁寧に説明いたしますので、些細なことでもお尋ねください。お気軽にお問い合わせください。